二人暮し

『診断結果』
極度の疲労/睡眠不足/大きな外傷は無し





未だ、昏睡から覚めず。

夏休み







一、カカシ

ぽっかりと開けた目に最初に映ったのは、天井だった。
様々な形に浮き上がった古い木目、そこから吊り下がった電灯の前時代的な傘、ミルク色の蛍光灯の丸い輪っか、微かに揺れている古びた細い紐。
それは、よく見慣れたオレの部屋の薄汚れてひび割れた白い合板張りの天井じゃあなくって、かといって病院の、やけに目に白々と蛍光灯の光が眩しい天井でもなくって。
どうやらここは、あの人の家のどこかの部屋らしい。
どこかって言っても、そんな広い家ではないんだけど。
もしかすると自分の部屋のそれよりも、見覚えのあるこの天井。
細く何列も何列も張られた天井板。飴色の梁。
そしていぐさの匂い。新しい畳の良い匂い。
良く知っている。
つい最近畳替えをしたばかりの、あの人の家の匂い。
寝かせられている身体の左の方から障子越しに、明るい外の気配。
風が通るように細く開けられた隙間から、庭の濃い緑が覗く。
手前に黒々と落ちる庇の影が、夏の太陽の強烈な日差しを物語る。
蝉の声。
きっと空は今、抜けるように青い。

ふっ、と記憶が蘇る。
目覚める前の最後の記憶。
オレは長い任務を終えて里に戻って。
そう、やっと里に戻って。
そして、あの人の目の前で倒れたんだった。
かなりきつい任務だった。
とある巻物を、他国の某所から奪取してくるという単純なものではあったけれど、それだけにこの任務がオレに言い渡された時、どれほど大変なものかは予想がついた。
つまり、そこらへんの忍じゃあ勤まらないってことだ。
案の定オレもずいぶんとてこずらされて、それでも完遂する事は出来たけれど、木ノ葉の里まで帰るのが精一杯で。
深手を負ったわけではなかったが、チャクラも体力も使い果たしていた。
無様に。疲れ果てて。
報告に行った先の部屋にあの人が居た。
オレを見る心配そうな瞳が脳裏に焼きついている。
ああ、そんな目をしないで。
あなたにはいつも笑っていて欲しいのだから。
意識を手放す直前、そんな事を考えた。

ああ。それじゃあの人はわざわざ、倒れたオレを自分の家まで運んで、看病してくれたのか。
一体ここがどこなのか、まだはっきりとはしていないのに、オレはここがあの人の家だって半ば確信していた。
だって間違えようが無い、この家の空気。
オレのことをわざわざ、自分の家に運んで看病してくれる酔狂な人間なんて、他に思いつかない。
身体の下の、さらりと心地良い布の感触。
掛けられた上掛けの、柔らかな重み。
お日様の匂い。
なんだか嬉しくなる。
どうやら今まで看病をしてくれていた人は、オレが目覚めたのを微かな気配の変化で感じ取ったらしい。
そういった些細な事に気のつく性格は、やはりものすごく教師向きだと思うから、あの人は職業の選択を間違っちゃいなかったよ。
このオレと違ってね。
ほら、廊下を歩く音。
この家の廊下って、人が歩くとこうしてぎいぎい鳴るんだ。
鴬張りみたいにね、どんなにそうっと歩いても鳴る。
それが面白くて、この家に来た当初ははよく遊んだ。
まるで小さい子みたいに。
本当に幼かった頃は、そんな事で遊ぶ事なんて出来なかったから。そんな子供時代なんて許されなかったから。
ああこの音、よく知っている。
もうオレの生活の中に、自然に入りこんでる音。
あの人の家の廊下の音。こんなに耳に馴染んでる。
だからほら、今障子を開けた手やその先にある腕。肩。
そして覗く、オレの大好きなあの人の顔。
そこに浮かぶ表情は、オレのことをホントに心配してくれたんだって分かる安堵の表情で、オレはその顔を見て初めて、ああ無事に戻って来れたって安心するんだ。
今回も俺は生きて帰って来れた、って。
一体どれほどの間眠っていたのか。
目を覚ましたはいいけれど、オレの身体はちっとも言う事を聞いちゃくれなくて。
だから、オレの顔を見て何かが切れたようにポロポロと、いきなり涙を零したあの人が、オレの枕元で座り込んで泣き笑いの顔で
「おかえりなさい、カカシさん」
って言ってくれた時、情けないけど、まるで自分の物じゃないかのように重い右腕を持ち上げて、あの人の涙をそっと拭ってあげるのが精一杯で。
ホントそれが精一杯で。
それで、上手く動かない舌で
「ただいま帰りました、イルカ先生」
って言ったらあの人はまた大粒の涙を零して、その事にオレは珍しくうろたえながらも心のどこかで、オレのことをこんなに心配してくれた人がいるって思って嬉しかったんだ。

心の底から嬉しかったんだ。








二、イルカ

あの人が帰ってきた。ぼろぼろで。満身創痍になって。
帰ってきたって聞いた途端、嬉しくなって職員室を飛び出そうとして、ふと見たらその報せを持って来てくれたまだ年若い同僚の女の子は、真っ青な今にも倒れそうな顔だったから、これはどうやらあの人やばい状態に違いないと思って、結局職員室を飛び出して任務報告所に駆けつけた。
ノックするのももどかしく、でもそこは一応きちんとドアの前で息を整えて身だしなみも整えて。
そしてドアを開けて。

開けて息を呑んだ。

目に飛び込んできたのは、あの人の血まみれのその姿。
その白銀の髪や色素の薄い肌や全身が、真っ赤に彩られてその誰の物かも分からないおびただしい血液が、黒い服の表面でどす黒くぬらぬらと光って見えてものすごい鉄の匂い。
報せを持って来てくれた彼女が真っ青になったのも、よく分かる。
銀色のはずの額当てだって、元は何色だったのか分からなくなるくらい一面真っ赤で。本当に真っ赤で。
眩暈がした。
赤くなかったのは唯一、あの右の瞳。
青い隻眼だけが元のままの、オレの知ってるあの人の色で、まあそれを言ったら左の目だって元の色そのままだったんだけど。
とにかくそれが、あのちょっと目を離せないくらい深い鮮烈な赤い瞳が、それまでも紛れてしまうくらいかなり壮絶な外見だった。
部屋の中で其処だけ、あの人の立っている其処だけ世界が違っていて、何故かオレはその時、あの人の背負っている何か底知れない深い、暗いものの一端が見えたような気がした。
多分それは気のせいなんだけれど。
それであの人はこちらをゆっくりと振り向いて、確かに一度視線が合って。
だからオレは、その一瞬であの人の瞳の色を、やけに冷静に観察したり出来たわけなんだけど、すぐにその瞼は閉じられて、崩れるようにあの人は床に倒れたんだった。
全身を、生臭い暗赤色に包まれたその姿で。
その部屋には、既に数人の上忍や他の人達も集まっていて、そんな目の前で倒れたあの人はすぐに病院に運ばれたんだけれど、診察の結果、全身に浴びたようにべっとりと付着していた血液は、どれもあの人のものじゃなくって、おそらく任務中に(血の状態から多分帰りの道中で)戦闘になって、その時に付いた敵方の忍の血だろうという事だった。
倒れた原因は外傷によるものではない、という診断結果を聞いて、入院の必要は無いのを知ったオレはその場で、断固自分が看病するんだと言い張って、あの人を自宅へと運んだんだった。
病院で綺麗に身体を清められたあの人は、元のあの色素の薄い白い外見が真白なシーツの上で、ひっそりとまるで消えて無くなりそうな雰囲気で。
静まり返った部屋の中でゆっくりと規則的に上下する胸に、オレはそっと安心する。
日に何度も覗く部屋の中で、障子越しの明るい外の、もう夏も間近なその気配すらも、あの人はまるで意に介さぬ調子でただ昏々と眠り続けていて、日に二度、栄養補給の為に繋がれた点滴のパックを替えるその時だけ、ああこの人はちゃんと生きているんだ、とオレは確信めいた安堵を得られるのだった。
さながらそれがあの人とオレとのささやかな会話のようで、その点滴のパックを通して、あの人が自分は生きているんだと外の世界に懸命に主張しているようで。
閉じられた瞼の奥、その向こうの小さな暗い穴の中で、あの人がオレを見つめる時に綺麗に細めるその瞳が、今は何も映さずただ虚ろにその闇の中に沈んでいるだけだと思うと、それを想像してなんだか少し切なくなるけれど、そんな時俺は一心に、あの人の居住まいを整えたり、さらりとした真白のシーツの上に散らばる、柔らかな銀の髪を櫛で撫で付けたりして、気を紛らわす。
いつか、その瞳がもう一度オレを映すのを、あの人の世話をする事で、まるで、捨てられた子犬が差し伸べられた腕に盲目的に縋るように、ただ待っている。
触る腕の、胸の、頬の皮膚はまだ温かい。
鍛えられた筋肉はその弾力を以ってオレの指を押し返し、首の薄い皮膚の裏を走る太い赤紫色の血管は、どくりどくりと命の音を運んでいる。
しんと静まった、二人の呼吸音しか聞こえない、そんな時が止まったかのような静かな部屋の中で、その鼓動が強く響いて耳に届いて。それはきっと錯覚なんだけれど、オレの耳には確かに届いて。
何時間も、放心したように傍らに座り続けてその音を聞く。
長期休暇を貰った時、その溜まりに溜まっていた有給を全て彼の為に使うのかと、許可印を押してくれた火影様や、手続きをしてくれた事務の人や、あと幾人かの同僚が、少し呆れたような心配そうな声でオレに訊ねてきて、オレはその通りだよとちょっと嬉しくなって、多分幸せそうに微笑んでそう返して、そうしたらもう皆何も言わなくなった。
だってそれは幸せな事でしょう?
好きな人の世話をする、これは多分誰だって嬉しい事に違いないと思うから、俺は堂々と胸を張ってそう答える。
あの人がオレのことを、あの優しい瞳で見つめてくれないのは少し悲しい事だけれど、目覚めた時に、最初にあの人の瞳に映るのは誰でもないこの自分、そう思ったらちょっとだけうきうきした。
だから、毎日あの人の居る部屋に行く前に、オレは必ず鏡を覗き込んで、身支度をきちんと確認してから障子を開ける。
障子の向こうであの人は、部屋の真ん中に敷かれた蒲団の上に横になって薄い上掛けを一枚掛けて、静かに眠っている。
左の腕には冷たく光る細い針が一本、肘の裏の辺りにその白い肌を犯すように深く食い込んで、それが見ていてとても痛々しかったけれど、その他はいつも寝ているのとまるで変わりない姿で。
あの人は、自分の身の回りになんてあまり気を向けない人だったから、服なんて着られればいいとそう思っていたような節もあるし、だからあの人の家を探してみても、寝間着になるような楽な衣服なんていくら箪笥の中を掻き回しても見当たらなくって。
しょうがないから、まっさらな浴衣を数着買い込んで、そのうちの一枚は今、目の前で横たわるあの人の身体を包んでいる。
その浴衣の、まだ糊の効いた布地が首元でぴっと直線を描いていて、静かにただ目を閉じている消え入りそうな淡い色彩の身体が、それを纏っているとなんだか、とても静謐で神聖な何かを見ているような、そんな気になる。
でも、あの血塗れだった壮絶な鬼気迫る姿とはまるで対角線上にいる今もやっぱり、あの人はあの人で全然変わっていやしない。
見ているこちらが勝手なイメージを押し付けているだけ。
ただ、それだけ。
幽かに規則正しく上下する胸。
そっと、その上に身を倒して耳を付ける。
命の音。まだここにいる。
ふと気付くと自分の頬が濡れていて、あの人の胸元も少し濡れていてそれで、俺はああ泣いていたんだな、とちょっと吃驚した。
大の大人が泣くなんて恥ずかしい、とあの人の顔を窺うと、相変わらず瞼を伏せた姿。ああ良かった見られてはいない。
目覚めた最初に見せる顔が泣き顔なんて、そんなのちっとも嬉しくないから急いで涙を袖で拭って、もう一回視線をやるとやっぱり同じ顔で静かに眠っていて、それでオレは少し憎らしくなって噛み付くようにキスをした。
何も喋ってはくれないその唇に、ねえ早くオレの名前を呼んでよ、その声を聞かせてよ、と文句を囁きながらキスをした。

そうして、オレの家に眠り続けるあの人が来て一週間目の昼。
なんだかその日は、朝から妙な胸騒ぎがしていて、だからオレは、その昼の出来事にも、ああやっぱりねとどこか全部分かっていたような、そんな気がしていた。
正午、いつものようにオレは、簡単な昼食を自分の為に用意する。
あの人の点滴は朝と夕に替えればいいだけだったから、非常に手を抜いた、腹を満たすだけみたいなそんな食事を一人分用意した。
一人テーブルに着いて、もそもそと味気無いそれを噛み締めていたら、突然あの人の気配が変わって。 それはもう、離れた台所に居てもはっきりとそう分かるくらい変わって。
ああ起きた、そう思った。
やっと起きた。
それでそっとあの人の入る部屋に近づいて、なんだか障子を開ける手もどくんどくんと、鼓動に合わせて震える感じを覚えながら、そっと中を覗き込んだら、そこにはずっと夢にまで見た、あの優しい瞳がこっちを向いていた。
赤と青の綺麗な一対。
オレだけに向けられるその眼差し。
なんだか、目が合った途端に、今まで麻痺したようにどこかで凍りついていた感情が、一気に溶け出したみたいに溢れ出して、オレは涙でぐしゃぐしゃな顔で、ああやっぱり泣き顔を見られちゃったな、なんて思いながら精一杯笑って
「おかえりなさいカカシさん」
と、目覚めたら最初にこう言おうと、ずっと決めていた言葉をあの人に向かって言ったんだった。




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2003.08.15
「夏休み」より。