二人暮し

三、カカシ

オレが目を覚ましてから、二、三日が経った。
どうやら火影様達の目の前で倒れてから俺は、一週間もの間昏々と眠り続けていたようで、それを聞かされた時に、なんでイルカ先生があんなにぼろぼろ泣いたのかよく分かった。
オレだってイルカ先生がそんな状態になったら、そしてやっと目を覚ましたら泣くよ。ほっとしてね。
だからイルカ先生が、あの後はっと我に返ったように慌てて涙を拭って、恥ずかしそうな怒ったような顔でぱたぱたと去ってしまった時、そして暫くして、手に吸い口とか飲み薬や、あと手拭いやら持ってもう一度現れた時、その顔がもういつものイルカ先生に戻っているのを見て、ちょっとがっかりした。
折角だから、熱いキスくらいしてくれたっていいのに。
でも、オレの枕元で甲斐甲斐しく働いてオレに水を飲ませてくれたり、濡れた手拭いで顔や首を拭いてくれたり、そんなイルカ先生はすごく嬉しそうで、ああ幸せだなあって思ってなんだかこっちまで嬉しくなった。
「ねえイルカ先生、水をもうちょっと飲ませて」
折角だから甘えた声でねだると、イルカ先生はまったくもうって苦笑して、それから優しく飲ませてくれる。
こんなイルカ先生を独り占めできるなんて、オレって幸せ者だよななんてしみじみ思う。
オレが寝かせられているのは、この家で一番日当たりのいい、南向きの一室だった。
庭に面したこの部屋は、いつだって気持ちのいい空気と、それから木々の緑の匂いがする。
今は夏だったから、縁側の向こうに張り出した庇のおかげで熱い太陽に晒されることはなくて、明るい外の景色とは対照的な、しんと暗い部屋の中で、日がな一日外と天井を眺めている。
季節はもう夏。
すっかり暑い焼け付く日差しの中でひっそりと佇む、庭の木や、石や、塀の向こうの見えない景色。
眩しさと、それに呼応するように黒々と描かれた濃い影の輪郭線。
毎日、蒸発してしまいそうな外の暑さを見ながら、ずっと床についたままで、それでもオレは快適に過ごしていた。
絶えず縁側でゆらゆらと薄く煙を昇らせている蚊遣や、軒先で樂を奏でる南部鉄の風鈴。細い金属線で丸く形作られた扇風機は部屋の隅から心地良い微風を送っていて、夕方に撒かれる打ち水はその音で涼しさを呼んでいるかのようだった。
そんな部屋はすごく居心地がよくって。
それはひとえにイルカ先生の気配りと働きによるものなんだけれど。
未だ身体は脱力状態から回復せず、トイレに行くのすら肩を借りなければならない状態で情けないけれど、でもイルカ先生にべったり甘えられるのは、いつもくっついては怒られる身のオレとしては、新鮮で嬉しい事であったから。
折りしも外は夏。
なんだか、生まれて初めての夏休みを貰った気分だった。

湿度が高い火の国の夏は、いくら動かないでいてもやっぱり、肌はべとべとするから気持ち悪い。
そんなオレの気持ちが分かるからか、イルカ先生はオレが目覚めた日から毎日、いや多分オレが眠りつづけていた間も毎日、何も言わなくても夕刻になると、身体を濡らした手拭いでいつも身体を拭いてくれた。
蒲団の上に身体を起こして上半身を脱いで、肌の上を、ひんやりと湿った心地良い木綿の感触が、滑っていくのを感じる。
目を閉じる。
彼の気配をすぐ傍に感じる。その優しい手付きを。
「カカシさん、腕ちょっと上げてください」
時折、傍らで静かな声が発せられる。
微かな息遣いまで聞こえる。
夕暮れ時の外の喧騒から、ぽっかりとこの部屋だけ切り離されたように、子供達の声や、どこかの犬が一声吠えたのとか、そんな全ての音がなんだか遠い。
近くで鳴っている風鈴の、涼しげに透明なあの音色すらも。
不思議に満たされた気分だった。
このまま世界に二人きりになってもいい、そう思った。
時よ、止まってしまえ。

「ねえイルカ先生」
「はい?」
ふと、イルカ先生も同じ気持ちだといいな、と思った。
彼の手は少し動きを止めて、こちらを窺うように首をかしげる。
ひぐらしの声。赤く染まった空。
遠い、子供だった頃の日々。
「このまま、時が止まってしまえばいい。そう考えた事ってありますか」
少しの間止まっていたその手は、また元のように動き出す。
「そうですね…」
呼吸をするようにひっそりと、言葉が紡がれる。
「オレは、去年カカシさんと見たあの花火の時、あの時そう思っていましたよ。あなたと花火を見上げながら」
溜息のような声。
「ああ、そうですね。あれは本当に綺麗だった」
「ええ。あの時、他にはもう何もいらないと思った。あんなに綺麗な花火をオレは見たことがありません」
ほうっと息をついて、あの時の光景を思い出したのか、うっとりとした表情でイルカ先生が笑う。
「そういえば今年も、もうそんな時期ですね」
去年と同じ、また夏が巡ってきた。
「ええ、確か今夜ですよ」
折角里に居るのに、見られなくって残念ですねと柔らかな声で言われ、いいえと首を振った。
「え?」
「あなたとこうして一緒に居られる。それだけでオレはもう、十分ですよ」
世話になっていて言う台詞じゃないですけどね、と苦笑して目を上げると、思いがけずそこには彼の泣きそうな顔があった。
「イ、イルカ先生?どうしたんですか」
何か悪い事を言ってしまっただろうかと、うろたえながら問うと、彼はくしゃりと表情をゆがめてこっちを睨みつけて、
「あなたねえ、人がどれだけ心配したと思ってるんですか。オレはもう二度と、あなたと一緒に居られないかもしれないって。そう思って…」
泣きそうな声。かすかに震える肩。
すい、と伏せられたその顔は、もしかしたらもう泣いているのかもしれない。
「イルカ先生…」
手の中の手拭いがきつく握り締められて、ぽたりと一粒、水滴を落とした。
まるで涙のように。
「ごめんなさいイルカ先生。ごめんなさい」
鉛のような腕を持ち上げて、そうっと彼の背中を撫でる。
なだめるように優しく、何度も何度も。
「オレはちゃんと帰って来ましたよ。イルカ先生のところへ帰って来ました。だからもう泣かないで。笑ってくださいよ」
ねえイルカ先生、とその伏せた顔を覗き込むと果たして、そこには涙に濡れた瞳。
その目に見つめられて。生きていてくれて良かったと囁かれて。
堪らず、抱き締める。
少し緊張したように硬くなった身体も、すぐにふっと力が抜けて、確かな重み。その体温。
「良かった…あなたが戻って来てくれて本当に良かった…」
腕の中で何度も繰り返される、嗚咽混じりの声。濡れた頬。
温かな水が、オレの裸の胸に落ちる。
「どこにも行きませんから。ここにいますから」
そう呟くオレの声に、イルカ先生はうんうんと小さく頷きながらそれでも不安そうに、オレが消えてしまうんじゃないかと、ぎゅっと両の手ですがってくる。小さな子供のように。
その震える背中に手を這わせる。
服の下、筋肉の綺麗な曲線が手の平に感じられる。
温もりも、鼓動のリズムも、その息遣いも全て。
いつまでそうして抱き合っていたのだろう。
長かった夏の日も落ちて、空はすっかり夜の深い漆黒に沈んで。
ゆうらりと浮かんだ月がやけに煌々と、辺りを不思議なほど明るく照らしている。
窓の外、この静寂を破るものは無く。
多分近所は皆、花火見物に出かけているのだろう。
何も聞こえない。虫の声すらも。
いつもなら聞こえてくる、子供の声や夕餉のさざめきや、そんな日常の音全てが、消えてしまったかのようで。
おかしなくらい静かだった。
明かりを灯さない部屋の中で、差し込む月光の中で、二人。
時が経つのも忘れて。

ただ、二人きりで。








四、イルカ

気が付くと、部屋の中を煌々と照らしているのは満月の光だった。
さっきまで茜色だった夕方の空はすっかり闇の中へ沈んで、辺りの物は月光に青白く浮かび上がっている。
全てが仄かに青白く、仄かに暗く。
その影さえも青かった。
抱き締められたまま。
いつのまにか遠くから、花火の音が響いていた。

一体どれくらい、こうしているのだろう。
何分?何時間?
時間の感覚すら、麻痺しているような。
そっと身じろぎをする。
と、背中に回された腕に力がこもった。
まるで、離さないとでも言うかのように。
「イルカ先生…」
耳元で、溜息のように囁かれる。
少し掠れた声。
首筋にそっと口づけをされて、吐息が漏れる。
「イルカ先生…」
耳朶を甘噛みされ、その手が優しく髪を撫でる。
するりと髪を留めていた紐を解かれて、自分の髪がぱさっと肩に落ちる感触。
髪の中に潜り込んだ手の、その指先を感じて背筋に快感が走る。
「あ…っ。いやっ…」
ふいに顎を持ち上げられ、泣いた跡を見られるのが恥ずかしくて、いやいやと首を振った。
「しーっ…。イルカ先生、こっちを見て…?」
なだめられるように囁かれて、視線の先には蕩けそうに優しい笑顔。
この人のこんな顔、きっとオレしか見た事ない。
頬に残る涙の跡に、何度も何度も唇が押し当てられる。
少しかさついた、柔らかな温かい感触。
口づけされる度に、ちゅっ…と濡れた音が、静かな部屋に響いて聞こえる。
背中を辿る指先。
どこが弱いポイントかなんて、この人はとっくに全部知っているから。
じりじりと身体の熱が上がっていく。
「あ…っ。はっ…あぁ…」
衣擦れの音。部屋に満ちる二人の息遣い。
身体の上に置かれた指先の動き一つにも、敏感に反応してしまう。
彼の唇はオレの両の瞼に口づけを落とし、顎のラインを辿り、耳の後ろを強く吸い上げた。
「あぁ…っ!」
堪らず、肩にすがる。
濡れた熱い舌先が、その敏感な皮膚をちろりちろりと舐めて、体内の熱が煽られる。
半ば開いた唇から漏れる、熱い吐息。
喘ぎ声が咽喉の奥から、押さえようとしても押さえられない。
彼の手が、唇が、快感を煽っていく。
脳が痺れたように半ば思考の止まった頭で、その動きを追う事に夢中で。
唇を重ねられて、夢中で舌を絡める。
「ん…っ」
鼻に抜ける声が、自分でも吃驚するくらい甘く響く。
何度も重ねられる口の端から、どちらのとも判らない唾液が一筋、とろりと顎を伝っていった。
貪るようにキスをして。
濡れた唇は糸を引いて、潤んだ瞳でもっと、とねだる。
浅ましいほどに、欲情した顔で。
この人をもっと感じたい。
肩のその滑らかな筋肉の曲線に、知らず、指を滑らせていた。うっとりと。
なんて綺麗なライン。
ひんやりと冷たい、その肌。

はた、と気付いた。

「…待って。カカシさん」
しまった。
彼の胸を、快楽の余韻で痺れたように力が入らない両の腕で押し返す。
「イルカ先生?」
どうしたんですか、と少し不満そうな声。
「カカシさん、こんなに冷えちゃって…。早く服を着てください」
肌は本当にひんやりと、冷たくなっていて。
いくら夏だからって、日が暮れてから濡れた身体を空気に晒していれば当然の事だった。
なんてこと。この人は病人なのに。
慌てて浴衣を着せ掛けると、まだ未練がましくオレの首を撫でていた彼のその手を、ぴしゃりと叩いた。
「はい、今日はここまで」
平静を装う。
その身体の芯は、未だその熱に蕩けていたけれど。
「さあもう寝てください。あなた病人なんですからね。早く治したいでしょう?さあ寝て。今食事を用意しますから」
わざと部屋の電気は点けないまま、手早く蒲団を整えながら、早口で話す。
赤く火照った顔に気付かれないように、まだ甘さの残る声に気付かれないように。
腰に力が入らない。
本当はずっと抱き合っていたかったけれど、そんな自分の気持ちに気付かない振りをした。
「うわイルカ先生ひどいなあ。ここまでその気にさせといて、おあずけですか?」
「あなたが、ちょっとで済むわけがないでしょう」
久し振りなんだからちょっとくらい良いじゃないですかー、なんてぶうぶう文句を言う目の前の病人をじろりと睨みつけて、そして拗ねた顔に向かって
「ね、早く元気になってください。オレだって、待ちきれないんですよ…」
と囁くと、途端に今まで膨れていたその表情が一変する。
なんてかわいい人。
そんな姿を見て、満足する。
他愛のない独占欲だ。この人はオレのもの。
放り出されたままの手拭いや手桶を片付けながら、こっそり口元が笑ってしまう。

「じゃあカカシさん、すぐに食事を用意しますからちょっと待っていてくださいね」
立ち上がろうとして、いきなりぐいっと手を引かれる。
なに?
そのまま胸の中に倒れこんだ。
「待って、イルカ先生。せめてこれだけ」
そのまま深く口づけられて、咄嗟の事でされるがまま。
繰り返し角度を変えて重ねられるその熱い唇。
歯列を割って入ってくる舌に、蹂躙されて呼吸すらままならない。
「んっ…っはあ」
強引に口付けられてそれでも、いつのまにか夢中で。
と、ふいにあっけなく唇が離される。
え?
ぼんやりした目で見つめると、
「ごちそうさまでした」
目の前の病人はにやりと笑って、ぺろりと唇を舐めた。

まったくもう!








『診断結果』
経過良好/特に見受けられる病気、外傷は無し








二週間後、長いようで短かった夏休みが終わった。






2003.08.15
「夏休み」より。