獄ヒバ合同誌より。

好きって言ってよ。







 獄寺隼人は女たらしだ。そういう噂を雲雀恭弥が耳にしたのは、もう随分と前のことだった。

 彼が転校してきてからというもの、良い意味でも悪い意味でも獄寺隼人という人物は、その派手な容姿や、帰国子女という肩書きや、秀でた頭脳や何かでいちいち注目の的になっていたから、そんな噂は出るべくして出たといったところか、大方海外仕込みのフェミニストな行動が端を発したのだろうと恭弥は思っていたし、特に他人の事に対して興味も無い。校内の風紀が乱れるようなら相応の措置は講ずるが、と一応構えてはいたものの、空気のように校内を流れる噂の割に、実際は特に揉め事も起こらず、相変わらず並盛中学校は相応に平和で相応に退屈なままだった。

 女たらし。実際その噂がどこから出たものなのか本当なのか、そんなのは恭弥にとってどうでもいい事だった。いい事のはずだった。

 騒ぎが起これば元を叩いて静かにさせるのに、と、何度目かも分からないその噂を風紀委員である部下から聞きながら、ふんと鼻をひとつ鳴らして、応接室の窓から校庭を眺めた。
その視界の先で件の人物が屈託ない笑顔で、友人であろう少年とじゃれている姿が目に止まって、ぴしゃりと窓を閉める。たん、と軽い音でその大きな硝子窓は軽く閉まり、自分のその行動までがなんだか軽いものに貶められた気がした。
 びりりと指先に伝わる痛い位の振動に、恭弥はもう一度眉を顰めて鼻を鳴らした。
 視線を外せないまま、見つめる硝子窓の向こうではこちらに気付く様子もなく隼人が笑っていて、なんでそんなに笑っているのか、苦しいようにひっそりと感じたままに睨みつけた。

好きだ、なんて。
はじめにあんな事を言ったのは隼人なのに。



 最初に噂を聞いた時、恭弥は裏の花壇の脇で少しだけ懇意になっていた野良猫と、のんびり顔を見合わせて少しだけ笑った。笑いながら、ああ自分は面白がっているなと、そう思った。視線を落として黒々と湿った色の土を見て、そしてまた顔を上げた。野良猫はいなくなっていて、傍らにはいつの間にか鼻血を出してうめく、噂を運んできた男の情けない姿があった。春の、もう初夏も間近の頃だった。
 隼人が何をしようと自分には関係が無い。たとえ、こちらがどんなに冷たくしても煩わしいほどに四六時中まとわりついてくる奴であってもだ。
「ふうん」
と恭弥は言った。その手に握りしめたトンファーが、自分の体温を吸って生温く重たかった。手に馴染んだはずのそれが、妙に違和感を感じさせた。
 興味無いね、と冷たく笑って、足元に転がっている名前も知らない誰かの腹に軽くひとつ蹴りを入れる。甘い春の風が恭弥の髪を揺らす、なんだかそれがひどく忌々しかった。

 次にそんな様子を耳にしたのは夏の、もう水泳の授業が始まる頃だった。
 恭弥は不特定多数の人間の使った水に入るのが苦手な性質であったから、上手に担当教師を丸め込んでいつものように一人、涼しい応接室で眩しい外の夏の風景を眺めていた。
 窓の下にはプールがあって、見下ろさなくても下から反射する夏の陽射しが目に痛いほどだった。女子の甲高い上ずったようなはしゃぎ声とか男子のそれとか、硝子越しに聞いても癇に障るものだったから、一体教師はどうしてあれほどに生徒を好き勝手騒がせているのだろうかと、文句でも言ってやろうとアルミサッシのレールに窓を滑らせて大きく開きかける、むっと押し寄せてくる夏の熱気が顔を包んだ時に、不意に下から聞こえてきた声があった。
「だからさ、今度お茶しない?」
 恭弥はそのまま窓を閉めた。反射的に体が動いて機械的に腕が動く、閉めてから少しだけ考えた。面白い冗談だなと思った。よく知った声、あれは多分というより間違いなく、隼人の声だ。
 なんとなく、いつものように傍に動物の気配を探す、探して、ああ、あの野良猫はこの前死んだんだっけと思い出した。探してしまうのは習い性のようなものだ。
 弱い人間は嫌いだ。こんな歳になってまで何かに縋ろうとしてしまう自分は、吐き気がするくらいに弱いと思うから、どうしようもなく嫌いだ、ぽつりと呟いた時に、それを弱いとは思わない、と言ってくれたのは隼人だった。あの猫の死骸を埋めたのも。

 淋しそうなアスファルトの色に赤黒く温かそうな色の己の腹の中身をぶちまけて、車にでも引っ掛けられたのだろうか、野良猫はそうして死んでいた。ほんの二週間程前だった。
 見つけたのは三年生の女子生徒で、彼女は下校中のその道端で、直ぐ傍を歩いていた友人を呼び寄せて数人で取り囲んできゃあきゃあと、可哀想だの気持ち悪いだのと散々にちっぽけな死骸に言い散らして、そうして何事も無かったように去っていったのだった。
 その、さながら品評会のような騒ぎの途中で通りかかった恭弥は、ぼんやりと足を止めてそんな光景を眺めていた。
 何も心には沸いてこなかったが、そのうるさいお喋りがさっさと止めばいいと、そう思っていた。風紀委員長が立っていたのが効いたのか、思っていたほどその騒ぎは長く続かず、割合にそそくさと女生徒達は去っていった。若しくは猫の死骸など珍しくもない、と直ぐに興味を失ったのかもしれない。
 彼女たちが去った直後に、本当に計ったようなタイミングで隼人がその道を通った。
 隼人は立ち尽くす恭弥に気付くより先に、自分の歩く道路の反対側の端で死んでいる猫に気付いて少し眉を寄せて、そのまますたすた近寄ると、あっさりと拾い上げてどこかへ立ち去っていった。後を追う気も無く恭弥はそれを見つめていた。
 十五分程経った後で、彼はもう一度恭弥の前を通った。制服の裾には湿った色の土が付いていて、眉は寄せられたままだった。
 恭弥の前を通りすぎる時にぽつりと、埋めたから、とたった一言、視線も上げずに呟いて隼人は帰っていった。
 立ち尽くす恭弥の目の前のアスファルトにはべったりと、赤黒く流れ飛び散った色とそこにくっついて剥がれなかった野良猫の色をした毛が散らばっていて、今にもにゃあと鳴きそうだった。泣き出しそうな色の空と重苦しく塗りこめられたアスファルトの色に挟まれて、そこだけが妙に鮮やかに赤く恭弥の目に焼きついた。
 そんな色をしていたくせに、その日、雨はこれっぽっちも降らなかった。
 そのままあっさりと梅雨は上がり、上がれば、はいさようならとばかりに一向に気配を感じさせない雨は、アスファルトを洗うこともしなかったから、路上の染みを気持ちが悪いと人々も避けて歩く。踏むのは度胸試しと面白がる一部の男子生徒や気付かずにただ歩く者、そして恭弥くらいなものだった。
 なんとなく猫の痕跡を求めて朝夕にその上を通りながら、隼人は一体あの猫を何処に埋めたのだろうと恭弥は思った。湿った温かな色の土、土の中なら野良猫も淋しくはないだろうか。
 染みは今もある。アスファルトと、恭弥の胸にべったりと。

―― 埋めたから。

 あの時と同じ声で、窓の下で隼人は誰かを誘っているのだ。
 不意に、暑いな、と恭弥は思った。
 応接室では備え付けのクーラーが絶え間なく冷気を吐き出し続けていて、常日頃から体温の低い恭弥でも少し寒いと感じる位の温度、設定は常に二十四度を保っていた。
 閉め切った部屋で循環し続ける空気、息苦しさを暑さに置き換えて、だからといって窓を開けてもなおさら暑いのは分かりきっていたから、恭弥はふいと左腕を一振りして傍らの見るからに高価そうな花瓶を、生けられた花ごと床へと叩き落としてみた。
 応接室に似つかわしい極彩色の絵付けが施された大振りの花瓶と艶やかな洋花は、がちゃりと耳障りな甲高い音を立てて赤い薄い絨毯の上で、全てをぶちまけて派手に散らばった。
 水を吸った絨毯が暗赤色に色を変えて、じわりと広がった染みは思ったよりも大きかった。
 ああ何かに似ているな、と恭弥は思った。
 陶器の割れる音は存外に響いて、多分硝子越しにも聞こえたのだろう、一瞬、窓の外がしんと静まったのが面白くて、くつくつと笑った。
 あの癇に障る声が聞こえなくなったのが、なんとも愉快で笑えて仕方なかった。

「ヒバリー」
 その時限が終わったすぐ後の休み時間の事だった。陽気な声でいつものように、隼人が応接室の扉を開けた。
 勢い良く開けたものだから、内開きのそれが百八十度回って内側の壁にばんと跳ね返る。
 恭弥はいつものように、ひどく不機嫌そうに横目でちらりと睨みつけた。いつもと違って今日は身体の芯から不機嫌だったから、能天気な彼の声がちりちりと神経を逆撫でした。
 殺すよ、小さく呟いたが相手は一向に本気に取らず、うーんやっぱここは涼しくていいな、などと暢気に呟きながら部屋の真ん中に置いてある大きなソファへ、隼人はどさりと腰を下ろした。
 そうだ、いつもこの応接室が恭弥にとって快適な温度よりも涼しくされているのが、実は目の前のずうずうしい男のせいだなんて、誰が気付いてやるものか。
 恭弥は苛々と、足元の欠片を踏み砕いた。ぱりんと甲高い音がして、少しだけすっきりとした気分になった。
 靴の下で絨毯はまだ湿ってはいたが、濡れた染みは殆ど元の色へと戻っていた。ああそれ、と彼が面白そうに言う。
「ヒバリそれさっき割ったんだろ。すっごい音が下まで響いてたぜ」
 何も知らないくせにそんなことを言う隼人を、恭弥は心の底から腹立たしい思いで見つめる、一瞬本気で殺してやろうかと思ったが何とか思い止まった。自分が殺してやる価値も無い。
 苛立ったように剣呑な目付きで自分を睨みつけて唇を噛む恭弥を面白そうに見つめ、隼人はのんびりとひとつ伸びをした。
「あー。体育で体力使い果たした」
と、これっぽっちも疲れてはいない様子でそう言った。
「せっかくヒバリのクラスと合同だったのに、ヒバリはいないし」
 短い夏の時期、水泳の授業が他のクラスと重なるのは、ままあることだ。隼人が自分のクラスを覚えていたとは珍しいものだと恭弥は感じたがすぐに、どうせさっき話していた誰かとの会話の中で気付いただけだろうと思った。
「ヒバリと泳ぎたかったのにさ」
 なんとまあ見え透いた嘘を、さらりと言うのだろうと恭弥は半ば感心して隼人を見る。自分がいたら誰かをお茶に誘うことなんて出来ないじゃないか、そう言ってやろうとして、馬鹿馬鹿しくてやめた。

 隼人は恭弥の事を、雲雀先輩でも雲雀さんでもなく、ヒバリ、と呼ぶ。
 ヒバリ、イタリア仕込みなのか、微かに他の人間とは違う音で隼人は恭弥を最初からそう呼んだ。
 初めて会った時に、恭弥が名を告げると隼人はちょっと目を見開いて、へえと感嘆したように頷いた。すげえな、ぴったりの名だ、とうっとり笑って。
「allodolaだろ?」
 さらりと彼の口から流れたイタリア語は、恭弥には聞き慣れない音であったが、すんなりと耳に馴染んだ。
 こいつに似つかわしい言葉だ、そう思った。
 雲雀という名を可愛らしい似合っているなどと言われるのは昔から大嫌いだったが、隼人に言われれば不思議と腹は立たなかった。
(ひばりちゃんかーわいー)
(ひばりちゃーんこっちむいて)
 幼い頃から自分の外見と共に賞賛されているのか、それともからかわれているのか、嫌がればそれは余計に止まなかった。
 子供なんて、無邪気と悪意は紙一重だ。だから恭弥は体を鍛えて、力で報復することを覚えた。
 弱いのは嫌いだ。群れれば怖くないとばかりに徒党を組んで対峙する奴等を、それ以上の力で捻じ伏せ、集団でいる事を蔑み嫌った。だのに。

 傍らでごそごそと音がして、はっと視線をやれば隼人がのんびりと、制服のポケットから煙草を取り出したところだった。慣れた仕草で口に咥える。
 風紀委員長の目の前でなんて大胆なと思ったが、元よりこちらにも、そんな行動を注意する気も取り締まる気もさらさらない、好きにすればいいさと恭弥は思った。
(後で困るのはどうせこいつ自身だ)
 しかし隼人はいわゆる不良達と違って、態度こそひどく不真面目だったが成績は優秀で、多分ここで恭弥が吊し上げて停学にでも追い込まなければ、さして彼は困らないのだろう。
 そう思いながら、恭弥は咎める事もせず黙ったままだった。
 かちりと微かな音がして、一呼吸置いてふわりと煙が上がる。少し俯いた隼人の頬を、柔らかな色の髪の毛がさらりと撫でて揺れる。
 静かな応接室の天井にゆらゆらと紫煙が立ち昇って消えてゆく、その匂いも光景も、もう慣れたものだった。
 応接室は長いこと恭弥のための場所だったが、隼人がやってきてから、此処は隼人の物になった。そんな気が、恭弥はしていた。
 クーラーの冷気が微かにこの部屋の空気を動かしている。ゆるゆると隼人の口から吐き出された紫煙が、少し高みでゆらりと渦を巻く。
 動いている、と分かるのはこんな風に目に見える何かが、空気に色付けしてくれるからだ。自分が何を考えているか分からないのは、色付けしてくれる何かが無いからだ。
 にゃあ、とどこかで猫が鳴いたような気がした。
 低いテーブルの上にお飾りのように据えられた仰々しい硝子切子の灰皿、今までずっと観賞用だったそれを実用に変えたのは隼人だったし、応接室の扉の錠を有効的に使うのも彼だった。
 かちり、とさっきのライターよりも少しだけ大きな音が部屋に響いて、もう一度視線を動かせばいつの間に立ち上がったのか、隼人が扉に錠を掛けたところだった。
 半分程に燃えてしまった煙草を咥えたままで、恭弥の視線に振り返ってにやりと笑う。
「体育に出なかったんだし、代わりの運動しねえと身体が鈍るぜ?」
 まったくなんて言い草だろうと恭弥は呆れ果てて、悪びれる様子もなく再びソファに腰を下ろして自分の腰に手を伸ばしてくる隼人を、睨み付けた。こいつは救いようもない阿呆だと思う。
「お望みなら今直ぐ殺してあげるよ」
 おお怖い、とふざけた口調で隼人が呟く、呟きながら片方の手で吸いかけの煙草を灰皿に押し付けると、次の瞬間反対の腕で恭弥の腰をぐいと強く引いて、自分の胸に抱きこんだ。
 ぐるりと恭弥の世界が反転する。
 恭弥は自分の思い通りに物事が運ばないのは大嫌いだったし、誰かに思い通りにされるのも大嫌いだ。だのに、隼人の腕の中では一瞬抵抗が遅れて、それが何でなのか気付きたくなくもない、と強く思った。救いようもない阿呆だ。こんな自分自身も。
 あっさりと自分の腕に抱き込まれた恭弥の反応を了承と取ったのか、隼人はこういう時にだけする色っぽい表情でうっとりと、恭弥のシャツの開いた襟元に顔を寄せてきた。
 ずっと冷気に晒されていた肌は思ったよりも冷えていて、恭弥は隼人の唇の熱さにそれを知る。
 苛々と、抱きすくめられた腕に力を込めた。恭弥がもがけば隼人はすんなりと腕の中から解放して、その執着の無いような仕草がまた恭弥には酷く気に入らなかった。
「ヒバリが本気で嫌がったら、どっかに飛んでいきそうだから」
 名前の通りに、と隼人が言って、だったら飛んでいかないように閉じ込めておけばいいじゃないかと、そう思った。思って直ぐにそれを打ち消す。
 立ち尽くす恭弥の目の前で、ソファの背にだらしなくもたれた隼人が長く伸ばした髪を掻き上げて、また新しい煙草に火を点ける。
 深くひとつ吸い込んだ後で、こちらに喧嘩でも売っているのだろうか、見せ付けるように、栗色の長いそれを殊更ゆっくりと、隼人はもう一度掻き上げた。大振りの指輪が幾つもはまった指の間から隼人の髪の毛が、さらさらと零れ落ちて金色に透けた。本気じゃないよと、恭弥を嘲笑っているようだった。
 いつだって隼人は煙草を吸う合間のほんの片手間に恭弥を扱っている気がして、なのに何故自分はこんな奴を此処に招き入れてしまっているのか、恭弥にはさっぱり分からなかった。
 きーんこーんかーんこーんと時限開始の鐘が響いて、隼人が伸びをして立ち上がる。さあてお勉強してきますかね、呟きながら二本目の吸殻を灰皿に放り込む。
 そういえばプールに入ったはずなのになんでこいつの髪は濡れていないのだろうと、恭弥はふと気になった。
「プールに入ったんじゃないの?」
そう聞けば隼人はにやりと口の端を持ち上げて、
「俺のこと、気になる?」
と、楽しそうな口調で言った。もっと気にして、などとふざけた調子で続くだろう言葉のその先も、もしかして女の子をナンパしていたその首尾までも聞かされそうな気がして恭弥は咄嗟に、
「うるさい」
とその言葉を遮った。そんな話はこれっぽっちも聞きたくない。いらいらと今度は爪を噛む。隼人が眉を顰めて、
「爪の形が変わるからやめろよ」
 恭弥に手を伸ばして腕を掴もうとする、触るな、と酷く冷たい声を出したのは果たして本当に自分だったのだろうか。
 はっと顔を上げれば目の前で隼人が、いつも恭弥を見る時の飄々とした笑顔をすうっと消して、まるで知らない表情を浮かべていた。
 応接室の扉の向こうで、ぱたぱたと廊下を急ぐ足音がひとつ、遠くに去って消えていった。
 その足音が消えるまでの間に、恭弥の視界はもう一度ぐるりと反転していて、背中にはソファの皮の古びた少し硬い感触が、眼前には隼人の顔とその向こうに白く無機質な天井が見えた。
 恭弥に覆い被さる形で俯いた隼人の顔の周りをさらさらと栗色の髪が落ちる、落ちた髪の毛がそのまま影を作って隼人の表情を見え難くしていた。ぎりぎりと、押さえつけられた肩がソファと隼人の手の平に挟まれて、じわりと痛んだ。
「…ねえ」
 一体何を考えているの、と言いかけて恭弥は息を飲んだ。柔らかな栗色の髪に縁取られた隼人の顔が近づいてくる、その表情がひどく怒っているように見えて、痛む肩の先、手には愛用のトンファーを恭弥は押し倒された時から握ってはいたけれども、隼人の手の熱さに、凍りついたように動かせないままだった。
 静かな応接室の中で、隼人の髪が落とす影は恭弥の表情もまた見え難くしていたから、ぎらぎらと太陽が照らす外とは対照的に、暗く覆われた自分の視界に、恭弥は少しだけほっとしていた。
 今自分がどんな表情をしているかなんて、知りたくなかったし知られたくもなかった。
 窓の向こうもしんと静かで、どうやらこの時間はどのクラスもプールを使わないらしい、だったらなんで、うちのクラスとこいつのクラスと、合同で授業なんかやったんだろう、と恭弥はぼんやりと、ソファの上で脈絡の無い事を思った。なに考えてんだよ、と焦れたような声が息と共に恭弥の頬にかかった。
 おまえの事なんて考えてやらないよ。微かに笑った恭弥の唇に、温かなものがそっと触れた。
 隼人のキスはざらりと苦い、煙草の味がした。






2007.01.10
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