あなたのいない世界は、こんなにも単調で。

ただこの瞬間に、きみを思うということ







かたり、と今朝倒れたコップが夕暮れになってもそのままちゃぶ台の上に転がっている。
そんなささやかな事で、あなたが不在であるということを(不本意ながら)改めて実感する。
開きっぱなしの窓からは少し肌寒い春の夜風、ふわりと流れてくるのはどこか近所の夕餉の支度とそれから藤や躑躅や石楠花や花水木や名も知らぬ花たちの、優しい匂い。
「花見に行きましょう」ふと記憶の中のあなたの声が頭に響く。
そういえば、直にあなたと花を見に行った同じ季節が巡ってきますねイルカさん。
雨の時期であったけれども「だから花が綺麗に映えるんですよ」と笑うあなたの嬉しそうな横顔ばかりが記憶に残って、正直花なんてあまり覚えてはいないんです、そう言ったらあなたはきっと、らしいですね、なんて苦笑する。
そんな事をつらつらと考えていたら腹の虫がぐうと一つ鳴って、ぼんやりしているのにも飽きたから、からりからりと窓を閉めて回って、さてラーメンでも食べに行こうか。
窓辺はざらりと春の風に運ばれた砂の感触が足の裏にして、とりあえず明日は床掃除でもしようかと思う。
なにかしていた方が気が紛れる。あまり何も考えてはいない頭で、身体だけが淡々と日々を過ごしていく。
あなたがいない。どうにもそれだけで世界は味気無いなにかに変わってしまったようで、腹を満たせればいいだけのことだから、実際ラーメンを食べにわざわざ一楽に行く必要も無かったのだけれど、でもあなたの好きな物を食べながらあなたの事を考える方が、なんだかよく思い出せるような気がした。
「へいらっしゃい!」いつも変わらない掛け声の親父さんはオレの姿に目を止めると少しだけ眉を動かしたようで、でも麺を振るう手付きは一瞬も止まる事なく流れるように、湯気を立ち上らせるどんぶりを次々と作り上げていた。
「みそ」たった一言呟いてカウンターに座る。
それだけで事足りてしまうこの店が、あなたほどではないけれどオレもけっこう気に入っていた。
なにしろ楽だ。こうして、あまり人と話したくないような時は特に。
やがて熱いどんぶりがオレの前にすっと出される。
ぱちりと箸を割って食べ始めるオレの両隣もその向こうも、ちょうど夜のこの時分は一番店の混む時間なのか、満席のようだった。
ずるずると熱い麺を啜ると味噌の香りが口の中に広がる。
醤油の方が本当は好きだったが、今は無性に味噌ラーメンを食べたかった。あなたの好きな。
咀嚼し、飲み込む。機械的に繰り返しながら、考えるのはあなたの事だけ。
ずるずると麺がオレの体内に飲み込まれていく。イルカさんイルカさんイルカさん。

「なに辛気臭い顔して食べてんですか」
唐突に背後から、笑いを含んだ声を掛けられた。
一瞬前まで何の気配も無かったのに、よく知った声が姿が、オレの後からどんぶりの中を覗き込んでいる。
「あれ味噌ラーメンですか珍しい」
あなた醤油の方が好きじゃありませんでしたっけ。そんな事を言いながらタイミング良く空いた隣りの席に滑り込むように座って、「オレも味噌」と明るくカウンターの中に声を掛けている。
おかえりなさい、そう言おうと思ったけれど、なんだかうまく言葉が出てこなくって、オレはラーメンを頬張ったままもごもごと隣に会釈をした。
「口に入れたまま喋らない」まるで子供に言うみたいに、反射的にあなたは言って、それからはっと申し訳無さそうな顔になって「ただいま帰りました」なんて。
ふわりと湯気の向こうに滲んだ顔が確かに現実のものかを知りたくて、差し出した手を、あなたの暖かい体温がぎゅっと掴んで、笑ってくれた。
「たまに長期の任務に行くと、些か疲れますね」出された味噌ラーメンに相好を崩しながら言うあなたの横顔をじっと眺める。
世界はまた元の通りに、柔らかに今をとりまいていく。たった500円のラーメンでさえ、この上なく美味しい素晴らしい一杯に感じられる。
「おかえりなさい」そう呟いたら湯気の向こうにオレの一番好きな笑顔がふわりと揺れた。







2008.04.30