馬鹿その二。

煩悶するには遅すぎて







初夏の宵というのは実に長風呂向きだなあと、初夏になるといつもイルカはそう思う。
同じく、春も秋も冬も風呂に向いているとその時々で思うものだから、なんともまあ、どうしようもなく風呂好きなおめでたい頭をしているものだ、と、そうイルカが風呂に浸かりながらひとりごちて苦笑するのもまた、いつもであった。
イルカは風呂がたいそう好きだった。ぬる湯に長い事浸かるのもなんとも気持ちの良いものだし、江戸っ子宜しく茹だるような熱さの風呂にざんぶり入るのもまた格別である。
この日もイルカは、仕事帰りにやっつけのように露店でぐいと冷酒をあおり蕎麦を啜って、適当に腹を満たすと薄暗く静まった我が家へと帰り、風呂の支度をした。
イルカの両親は、イルカのまだ少年の時分に早々と鬼籍に入ってしまっていたから、イルカは古ぼけた家にたった一人、それからずっと生活していた。広かった家はイルカの成長と共に丁度良い具合の大きさに収まっていたから、この家を引き払おうと思ったことは無いし、毎夜、里の中心街から少し離れた静かな我が家に帰ってくるのも別段億劫ではない。
ただ、イルカは両親の痕跡が残ったままのこの家を、あまり好きではなかった。
好きではなかったが自分が暮らすのはこの家以外には無いと思っていたし、両親の遺物を全て処分してしまうのも気が引けて、だから少年だったイルカは、家の中で割合その痕跡の少ない風呂場へと、逃げ込むように入り浸るようになっていったのかもしれなかった。さながら、風呂が好きで好きでたまらない風を装って。
だが月日が立てば嘘も真へと変わってくる、今ではすっかり風呂好きになったイルカは、毎夜たっぷり一刻は風呂から上がってこない。男の一人暮らしには別段やる事もなかったし、帰ってまで仕事に励むのは愚直というものだ、毎日働きに出ていれば部屋も散らからず、外で飯を食えば手間も省ける。おかげで十分に余った時間をイルカは風呂に、夜毎費やしていた。
湯気が、そう高くも無い風呂場の天井辺りまで漂ってはぼんやりと白く澱む。こもった湿気を逃がそうと、イルカが湯船から手を伸ばして、傍らの少し建て付けの悪い木枠の硝子窓をがらりと開ければ、黒々とした輪郭を描く梢の向こうに、半月が煌々と夜空を照らして見えた。
しかし、やがてこの月も落ちる。
世に、永遠という事など無いのだというのをイルカは十二の時に学んだ。身をもって実感させられたのだ。それからイルカは、無駄に欲しがらなかったし望まなかった。欲しがって手に入れても、一時の事なのだ、と思い知ったからだ。幸せなど長く続くものではないのだから、いっそ始めから無い方が喪失を味わわずに済むだけましだ。
ひんやりとした夜風が頬を撫でる、窓から流れ込んだ空気に、風呂の湯の香りと青臭い雑草の臭いが絡んで風呂場を満たした。
ぼんやりと湯に浸かるのも、半時も過ぎると次第に上せてくるから、さてこのへんで髪でも洗おうかと、イルカはその黒く伸ばした髪を一つに束ねていた紐を解きつつ、立ち上がると風呂桶から洗い場へ上気した身体を運んだ。
貧血だなんてそんな女々しいものでもないだろうに、長風呂は何かと身体への負担が大きいのか、勢いよく動くとくらりとする。熱に少し痺れたような肌が空気に触れると冷やりと心地良い、なんとも良い具合に夜風を通した窓を一瞥してイルカは、やはり風呂は最高だ、と思った。じわじわと体中に染み透るような疲れが程よく精神を弛緩させる。
洗い場に立ったままで乱暴に髪をかき回す。一日中キリキリと縛り上げていた髪を解いて湯を掛ければ頭皮に、痺れたようにじんわりと走る感覚が心地良かった。
がしがしとシャンプーを泡立てて洗うとそこら中に泡が散って、優しい石鹸の香りが風呂場に広がった。ざぶりと適当に髪をすすぐと洗い場には、イルカの髪から落ちた泡が流れきれずに隅の方に溜まる。綺麗に流さないと黴が付くよ、そう言っていたのは母だったろうか。
もう思い出しても、心が痛む事は無い。痛みを忘れる事だけは上手くなったな、とイルカは呟いて、リンスの容器を手に取った。
別段髪の手入れに気を使っているわけではないが、このシャンプーはリンスまできっちりしないと髪がごわついて結うにも辛い、安さにつられて買ったのが、なんとも予想外にリンスまで必要だったので結局は高くついてしまったのだろうか、と何度か後悔とまではいかないくらいに思い返したのだったが、それでも匂いは好ましかったし、風呂に多くの時間を使うイルカがそれほど手間を惜しむわけでもなく、だから安売りのシャンプーは取り替えられることもなく、そのままイルカの家の風呂場にリンスと並んで置かれたのだった。
手の平にどろりと出されたリンスは乳白色で、シャンプーより重くねっとりとイルカの指に絡みついた。ぼんやりをそれを眺めて、何かに似ているとイルカは思った。だが何に似ているのだろう、思い出せないもどかしさに少し眉を寄せながら手の平のそれを髪に塗りたくった。そして、その途端に思い出した。ああそうだ精液だ。
分かればそれはイルカの想像の中で精液になった。そうだこれはカカシの精液だ。実際カカシの精液なぞ、今までお目にかかったことすらないというのにイルカは自分がカカシの精液を髪に塗っている様を想像して、うっとりと目を瞑りながら髪に優しくそれを塗りこめた。何度も指は髪の間を通り、指の股が髪を梳く微かな快感にイルカは恍惚の表情を浮かべながら、リンスに塗れた己の指先をそのまま下ろしてそろりと、いつの間にか勃起していた己の性器にもリンスを塗って、塗りたくって、そうしてざんぶりと冷たい水を頭から被ったのだった。もう何も望まない、と決めたはずなのに自分は果たして、カカシを望んでいるのだろうか。想像し、妄想し、眩暈のするような快感にひっそりと笑う。
そうしてイルカは風呂にもう一度入ると目を瞑って、そっと湯に頭を沈めた。性器はまだ勃ったままで、イルカの精液もカカシが髪に塗ってくれればいいのにと思いながら、イルカがうっとりと湯船の中で目を開けば、窓の外には半月が、変わらぬ姿で夜空に架かっていた。湯に揺らいで歪んで見えた。






2006.06.11
『ある、青春以上中年未満の苦悩と、そのおかしくもばかげている恋と。』の世界。