あなたのいるこの地上を。この世界を。

窓を開けると途端に押し寄せてくる初夏の風と潮の香り。露台の向こうには、輝く海が広がっていた。




玻璃の花






雲海の上だから、晴れているのはいつものことだったが、たまには雨でもいいんじゃないか、とイルカは思う。しっとりと音もなく降る雨の日の、ぼんやりと鈍く明るい外気を隔てて薄暗い室内から窓の外を、ただ、眺めるのが彼は好きだった。
濡れて一層鮮やかな樹木の色合い、発光しているかのように淡く緑に浮かぶ若葉、紫陽花の花の色。イルカの住んでいたのは小屋と言って良い程に粗末な住居だったが、四季を通して競って咲き誇る庭の花は近隣の家々のそれとは比べものにならないくらいに見事なものだったから、遠出をしてわざわざ見に来る者まで、時折見かけた程だった。
別段手をかけるわけでもないのに、イルカが花を植えればそれはとりわけ良く咲いた。いつか、お前は教師なんかよりも百姓になって作物を作った方が良いのではないか、と笑いながら同僚のアスマに言われた事もあったが、イルカは教師という職を愛していたし、自分の性にも合っていると思っていた。幼い子らを教え導くのは、なんともやり甲斐のあることだ、そう返せば、隣りで煙草をふかす友人は「ご立派なことで」と呟いて、だがそう言うアスマも、熊のような見かけとものぐさな性格からあまり職業を言い当てられる事の無い友人だったが、めんどくさいと嘯きつつも、結局は教師という職を愛しているのだろう、とイルカは思った。
そんな会話をしたのは、もう随分と前だ。
ぼんやり露台から雲海を眺めていると背後から、抑えた声色でイルカに話し掛ける者がある。
「風邪を召しますよ」
振り返れば、いつからそこにいたのだろう、気付かぬうちにイルカの後ろには、白い髪の男が立っていた。
「カカシ」
いや白と言ってもいいのだろうか、偏光する複雑な光沢が、雲海から反射する光を受けてまろみのある艶を見せる。真珠のような、と言っても間違いではないのだろうが、それよりもっと鮮やかで美しかった。
男の髪も衣も、初夏の風を受けて柔らかに揺れる。
イルカの黒い髪も同じように揺れているのを、カカシと呼ばれたその男は、眩しそうに見つめていた。
「こんなに良い陽気なのに、風邪など引きません」
イルカは穏やかに笑って返す、カカシの丁寧な口調や物腰は間違いなくイルカを主と立てていて、それでも、イルカを主人だ、と言うカカシにイルカは、同じく丁寧な口調で話す。カカシが神獣だから、とそう言い張って。
「主上」
カカシが困ったように呟く、心配なのだろう、少し寄せられた眉の下の色違いの双眸はなんとも気遣わしげな様子で、目の前のイルカを見つめていた。
「王は風邪を引かないですよ。何せ、神籍の身です」
イルカは言葉を繰り返す、カカシがいつだって自分の心配をしてくれているのは知っていたが、なぜか素直にカカシの言う事を聞く気にはなれなかった。
「雲海は眩しすぎて、目に悪い。どうかもうお入りください」
引かず言葉を重ねるカカシの顔を、見つめる。
一心に自分を見る碧紅の双眸、初めてこの瞳に見つめられたのはいつだったろう、あれは丁度去年の梅雨の時期だったろうか、とイルカはふと思い返す。

イルカの家の、庭に一面に咲き誇る紫陽花の繊細に淡く白い花弁の色は、大概が青や赤に咲くその花にはなんとも珍しい色合いで、イルカもとりわけこの花を気に入っていた。雨の日に、微かに発光しているかのように、けぶる視界の中に白く浮き上がるその花を愛でるのが好きだった。
ある細雨の日に、紫陽花の花群の中に雨に霞む人影を見つけた。
雨の所為で霞んでいるのではないと気付いたのは、驚いて家から出てきたイルカの足元に、濡れるのも泥で汚れるのも厭わずにその人物が額付いた時だった。しっとりと雨に濡れてなお鮮やかに白く輝くその髪と、若葉を重ねたような衣の色合いが紫陽花とよく合って、溶け込んでしまいそうな程に、繊細な様子だった。イルカは、紫陽花の精霊でも現れたのだろうかと、不思議な気分で見つめていた。
イルカの視界の中で、今まで見たどんな花よりも鮮やかなその瞳が、強い光をたたえてイルカを見上げて、
「貴方が、王です」
と、告げたのだった。
先の王が崩御されてから十余年が過ぎていたが、イルカの住んでいた辺りは州候が良く治めてくれていたから、未だ妖魔の被害も殆ど無く、さほど酷い有様ではなかった。
前王は蝕の際に大量に沸いて出た妖魔を退けようとして亡くなったのだという。あっけないものだ、王と言っても決して不死身なわけではない。
イルカの両親も蝕の際に一緒に死んだ、崩れた山に埋もれてしまったのだ。随分と大きな蝕だったから、それも仕方の無い事かもしれない。それから後は自分一人生きるのに懸命で、王がいた時とどこがどう悪くなったのかと聞かれてもイルカは上手く答えられない。王が父母がいた安寧の日々をよく思い出せない。
だから麒麟が、自分を迎えに来た時も驚きはしたがそれで何かが変わるとは思えなかった。ただ、自分が登極することで少なくとも教え子達の生活が良くなるならと、そう思った。思ったから、麒麟に連れられてここに来た。
麒麟の字は、カカシといった。誰が付けたのかは問うまでもない、前王だろう。由来はと聞けば、雀がよく逃げそうな髪の色をしているから、と言う。世にも稀な白麒を捕まえてそんな字を付けた前王は、一体どんな人物だったのだろう。良い王であった、と聞こえてくる噂はどれも芳しいものであった。ただ、運が無かったのだ、と。
だったら、とイルカはいつも思う。だったら、カカシはどうして自分を選んだのだろう。
イルカは、己が賢帝になれるなどと奢ってなどいない、むしろ、ちゃんとした治世を出来るのかすら危ういほどだ。所詮、一介の序学の教師だったにすぎないのだから。国を治めるのが何たるかすら、未だイルカにはよく分かってはいない。懸命に日々、寄せられる膨大な書類に目を通し、諸侯の話を聞き意見を求める。それでもなんとかやってこられているのは、補佐が数人掛りでイルカを援けてくれるおかげだ。
カカシの優しい手がそっとイルカの肩を掴んだ。入れ、と促しているのだろう、イルカも逆らわずにおとなしく押されるまま、部屋の内へと入っていった。
優しく笑うカカシの、だがその本当のところがイルカには分からない。
カカシが笑うとなんだか胸の内が温かくなるようだったから、イルカはカカシの笑顔を好ましく思っていたし、見るのが好きだった。しかし周囲の声は何とはなしにイルカの耳にも流れてくる。カカシがまったく笑うことの無い、無表情な能面のような、麒麟であったという話だ。
イルカはそんなカカシを知らなかった。初めて会った時からカカシはイルカに、柔らかな表情を向けていた、イルカもそれが普通だと思っていた。だが周囲の目には、奇異に映るらしい。何故なのだろう。振り返れば直ぐ後ろで、露台に続く大きな硝子扉をぴったりと閉めたカカシがイルカに向き直って、そうしてまた、見慣れた笑顔を浮かべる。優しい視線。
「温かなお茶でも、用意させましょうか」
いやできれば冷たい飲み物を、とイルカが言えば、カカシはかしこまりましたと笑って裾を翻しながら廊下へと消えていった。イルカの胸の内がまた、ほっこりと温かくなる。
季節は初夏、盛りを過ぎただろう紫陽花の甘い匂いはまだあの庭に漂っているだろうか。白い花弁の、豪奢に開く大振りの花群は今年もまた美しく、咲いているだろうか。カカシのような、色合いで。
いやむしろ、とイルカは視線をもう一度露台の方に向けた。
硝子扉の向こうに輝く雲海が見える。透明に艶やかに、硝子扉の裾の方には様式化された繊細な花の図案が彫り込まれて、きらきらと外の光に透けて見えた。ああそうだ。玻璃のように硬く脆く、透明に輝く花の方が、カカシに良く似ている、とイルカは強く思った。
お茶の用意が出来たのだろうか、遠くから、女官の連れ立ってやってくる足音が聞こえてくる。
何処からか甘い花の香りがして、カカシの嬉しそうな声が、お待たせしました、と柔らかに部屋に響いた。





2006.06.11
十二国パロです…すみません。