ほんとうにたいせつなもの。

砂漠の人魚姫


茫々とした荒涼の大地が広がっていた。遮る物は何も無くただ、世界には空と大地と乾いた風。背後から絶え間なく吹く風に、強く髪を弄られ衣服ははためき、ついに身体ごと持っていかれそうになり諦めて暑い砂地に両手をついた。太陽が大きく見えるのは果たして錯覚かまやかしかそれとも本当なのか。何も見えない、ただ砂ばかりがどこまでもどこまでも。自分が何者なのかすら分からなくなりそうで、ひっと無意識に小さな悲鳴が咽喉から出たので、ああまだ自分は生きてはいるんだなどと妙に冷静に考えたりその隅で死にたくないと恐れを抱いたり。まったく私はかくも浅ましい。

水をください水をください。このままでは私、乾いて死んでしまう。水をください。

月が出た。さすが砂漠では雲すらない深い深い深海の闇色の空に、ぽっかりと不意に煌々と眩しい月が辺りを照らす。砂漠に膝付いたままじっと砂を眺めて気付いたら、砂の上にくっきりと影があったのでああもう夜なのかと空を仰いだ。これで満月だったらなんとも出来すぎた芝居のようだと思ったが果たして十三夜の月はまったく今の自分に似つかわしいような曖昧さで、ただ万物を照らして其処に居た。深い夜のしじまの底に居た。ああ、ああ美しい。

また日が昇り、また日が暮れる。どうやらまだ生きている。

そうだ此処から行かなければ、とある日思った。此処からこの場所から行かなければ、私。そうかそれなら抜け出す足をあげようと、誰かの声がした。空気を震わせて、なんとも幽かな声がした。ちょうだいと、足をちょうだい今すぐに、と声をあげて欲しがった。此処に来てから始めて言葉を発して、それを欲しがった。もう砂漠には飽いていた。ではその代わり、お前のその声を貰おうその声でお前は欲しがりお前は望んだ。交換に今度は声がお前の欲する物と成るだろうがそれはまだ先のこと。今お前が欲しいのは足であろうとそう言われ、ええ、ええそうですとそう言ったその瞬間。

声は消えていた。

そして次に目を覚ませば視界には、真っ青な空とどこまでも溶け合った紺碧の海。交換だ。望みはかなえたよと耳元で消えそうに囁く声がやっと聞こえて、そしてすっかり消えてしまった。手に触る感触は相変わらず砂だったけれど、濡れた感触。さらりさらさらと波が私を優しく撫でた。懐かしい潮の匂い。

ああただいまただいまただいま。

もう海がこの水の世界がいやだなんて私二度と言わない。ここで一生を終えるの。望む声はもう出やしないけれどそんなのちっともかまわない。人魚は大きく呼吸を一つして、そっと波に身を乗せた。





20040724
オリジナル。