そんな事決して言葉にはしないけれど。

取るに足らぬ





暗くどこまでも沈む夜だった。
低い音を立てて煉瓦に囲まれた路地を抜ける風と、それにおびえた野良犬が一匹、高く一声啼いたきり、辺りはまた闇の沈鬱な空間に支配されて、それっきりだった。
冷たく凍えた窓のその中で、厚く帳を下ろした人々はまだ温もりの残る暖炉と暖かな寝具にしっかりと守られて、甘い南国の怠惰な夢を見ている。
この町の中心に位置する大総統府。その軍宿舎の中でもまた、それは同じであった。
固く閉ざされた透き通る硝子が、強く風に煽られてはがたがたと硬質の、酷く耳に残る音を立てる。
ロイ・マスタングはベッドの上で、先程からひっそりと目を覚ましていた。
照明を落とした室内は闇の中で、いくら目を凝らしても何も見えるものではない。


おや。来たか。


暗闇の中、窓を叩く風の音の外にはどんなに耳を済ませても、何も聞こえはしない。
なのに。


ああ、待っていたよ。


不意に温かい息が、ロイの頬にかかる。待ちわびていた気配。くくっと笑うと、途端にぐいっと乱暴に顎を掴まれる。
ひやりと金属の匂いが鼻を掠めた。
ずっと待っていた匂いだった。
はがねの。
唇が合わさる瞬間、ロイは微かにそう囁いた。
そして、ねっとりと口腔を蹂躙される快感に、何も見えないまま目を見開いていた。






こんな月も無い夜は、誰もが夢の世界へと閉じこもりたがる。
だからほら、こうして練成反応にも誰も気付きやしないんだ。
セントラル大総統府。冷たい煉瓦の建物は無機質に巨大で、その前に立つ者を威圧し威嚇しそして威厳があった。
風にばたばたと見る人もいないまま、旗がうめきをあげている。
エドワード・エルリックは冷たくそれを見上げるとくるりときびすを返して、そのまま勝手知ったる風に、敷地の奥にある宿舎へと向かっていった。


誰もそれを知らなかった。


練成を三回もやると、やすやすと目的の部屋の前までやってこられた。ちょっと警備の手抜き過ぎなんじゃないの?と関係無い事だが心配になる。
君が何を言うんだ、と返されそうだけれど。
自分がそれを言う相手と、相手の反応を想像して可笑しくなる。全く、眉ひとつ動かさずに冷たく返しそうだよあんたは。
そんな昼間の顔を、そしてこれから見る夜の顔を思う。エドだけに見せる、あの。
扉の蝶番は完璧だった。軋みひとつせずに絹の様に滑らかに、暗い室内が目の前に広がる。
細く開いた隙間から身体を滑り込ませると、扉が閉まって真っ暗な室内を、まるで泳ぐようにエドは真っ直ぐ歩いていった。迷うこともなく。







だからこうして来たのかい?


滑らかな背中だと思った。
情事の余韻の残る火照った肌は肌理が細かく、手にしっとりと馴染む様で、自分と相手との境界が判らない。
無機質に右肩に食い込んだ金属の塊が温く、肌の温度を移している。


いいや。気が向いたから寄っただけだ。


乱れたシーツの上で、気だるく身体を投げ出している相手をちらりと見やって、ふいと不機嫌そうに少年が目を背けた。


そんなことを言って。本当は私に会いたかったのだろう鋼の?


にやにやとなおも問いかける相手に、うっせえないつまで触ってるんだよエロ大佐、と怒った声で少年が返す。
全く、いつだって大佐は癇に障るようなことばかり言う。
いつだって、その声で。








取るに足らぬ理由です。あなたの声が聞きたいだなんて。





20040321